HOMEアトツギノート後継者, アトツギ甲子園代々続く「鋳物」の技術で新時代のニーズに挑む。秋田には若者がチャレンジする土壌がある

代々続く「鋳物」の技術で新時代のニーズに挑む。秋田には若者がチャレンジする土壌がある

代々続く「鋳物」の技術で新時代のニーズに挑む。秋田には若者がチャレンジする土壌がある

老舗企業で挑戦し続けるアトツギ:有限会社武藤工芸鋳物 武藤 元貴 氏


代々受け継いできた技術で、お客様の希望を叶える

秋田県秋田市にある有限会社武藤工芸鋳物は、明治中期に創業した歴史ある老舗企業。「鋳物」とは、金属を高温で溶かして型に流し込み、冷やして固めた製品のことである。身近なものでは鍋やフライパン、大きなものだと銅像などが鋳造の技術で作られている。武藤工芸鋳物は、完全受注生産でオリジナルの美術工芸品を中心に製造・販売しており、橋やトンネルの銘板、銅像などの景観品、看板や表札などが主な商品だ。アトツギとして修業中の6代目候補・武藤元貴(むとう・げんき)さんは、今の時代に必要とされる新たな商品を生み出そうと、挑戦を続けている。


武藤工芸鋳物の主要商品である橋の銘板

「うちの製品の7割は橋やトンネルの銘板で、一つひとつ違う名称や字体だから完全オリジナルの製品なんです。字体は、その土地の名士が書いたり小学生が書いたものだったり、いろいろです」と、元貴さんは実物を手に説明する。

初代が創業した明治時代は、各家庭に囲炉裏があり、自在鉤に鉄鍋をかけて日常的に使っていたため、鋳物の技術はより身近なものだった。一つの町に1人は鋳物職人がいて製造から補修まで行い、人々の生活になくてはならない仕事だったという。しかし、時代の流れとともに生活様式が変わり、鋳物の技術を必要とする場面が日常生活から切り離されていった。鋳物職人は次々に廃業し、やがて高度経済成長の時代が来ると、鋳物を生産していた大企業は船や自動車の部品、水道管などを量産する方向に舵を切りはじめた。


事務所内には代々作られてきた工芸品がずらりと並ぶ

そのような時代に、元貴さんの祖父は完全受注生産で一品ものの美術工芸品を作る道を選んだ。家業の歴史をひもとき、代々の経営者の心理について考察した元貴さんは、このように話す。「鋳造の技術があれば何でも作れるんですよ。その技術を使って、うちは、お客様の要望に沿うこと、お客様の課題解決をするという方向を向いて、常にやってきたのではないかなと思います」

その歴史が、量産型ではなくオーダーメイドの一品ものの製品を受注生産していく社風として受け継がれてきたのだろう。最近は職人の高齢化や後継者不足などが理由で、鋳物の産地であっても事業をたたむ会社が増えてきたという。そんな中、閉業した鋳物会社の顧客から「作れる人がいなくて困っている」と、武藤工芸鋳物に話を持ち込まれるケースも増えている。盾や記念品などといった一品ものの場合、量産型の会社には断られるか、予算を超える高額になってしまうことが多いのだという。一品ものを手がけてきた歴史があるからこそ、そのようなニーズに応えることができるのだ。

「鋳造」は、一回限りの真剣勝負

鋳物の製造工程は、金属を溶かすところから始まる。金属の種類によって温度は異なるが、ブロンズは約1,200℃、鉄なら1,400℃と、日常では触れることのないような高温で鋳造に最適な状態まで溶かす。溶かした金属を高温に耐えられる「とりべ」と呼ばれる容器に入れ、鋳型に注ぎ入れる。注ぐ時の高さ、圧力、太さ、タイミングが少しでも合わなければうまくいかない、とても繊細な作業である。この一連の作業を「吹き」という。

「流し込んでいく端から金属は固まっていくんですけど、一度固まってしまうと、後から流し込んだ金属と一体にならないんです。だから途中で固まってしまわないように一気に流し込まなければなりません」



「とりべ」本体の重さが5〜6kg、そこに10kgほどの溶けた金属を入れて運ぶ体力仕事だ

完成品の形を決めるのは、鋳型である。「吹き」の工程の前には、作りたいものをデザインして原型を作り、砂で型を取って鋳型を作る作業がある。元貴さんは、鋳型作りと「吹き」の作業が対照的なところが、この仕事の特殊な部分だと言う。

「原型を作るとか型を取るというのは、何度でも試行錯誤して良いものにしていく“積み上げる”仕事です。でも、溶けた金属を流し込む作業は“一発勝負”。ここで失敗すると、鋳型作りからやり直しです。積み上げてきたものが全部、振り出しに戻ってしまうんです。だから、『吹き』の作業が肝であり、そこ一点に集中します」

元貴さんが「吹き」を担うようになるまでに、約3年かかったという。


銘板の原型


この砂で鋳型を作る。手に取って握るとすぐまとまる粘度のある砂だ

「実は不器用なんです」と笑う元貴さんだが、最終的には肌感覚で捉えるしかない難しい鋳造の技術には、元貴さんなりの思いがある。「今の時代、鋳造の技術って『毎日必要なもの』ではないんですよ。でも『無いと困るもの』でもあるんです。鋳造の技術はこの先ずっと承継していく必要がある、大切な技術だと思っています」

父からは「斜陽産業だから、継がなくていい」

小さい頃から工房が遊び場で、祖父や父の働く姿を見て漠然とものづくりへの憧れがあったという元貴さん。しかし、高校生の頃に社長である父と家業について話し合った時、「鋳物は斜陽産業だから、継がなくていい。好きなことをしろ」と言われ、全く別の分野へ進学、就職をした。

「子どもの頃、この辺りは一面田んぼだったんです。収穫後に大量に廃棄される稲わらを見て、なにかに有効活用できないかと考え、東京農工大学に進学して、稲わらからバイオエタノールを作る研究をしました。でも、いろいろ考えた末にその道には進まず、東京のイベント会社に就職しました。

小さい時からずっと竿燈まつりに参加していたこともあって、地元の文化をもっとPRできないかと考えたんです。稲わらの研究もそうですが、『秋田のため』が自分の中で一つの大きな軸になっていました」



2011年の東日本大震災後、「町おこし」というワードが心に留まるようになり、帰郷を考え始めた

東京で働くようになって数年、元貴さんが「秋田に戻りたい」と思うようになったタイミングで、父から「家業に入るか」と声がかかった。

「小さい頃からの憧れの仕事に就ける、というのは純粋に嬉しかったです。ちょうどその頃、秋田県産業技術センターに最先端の機械が入ったと知り、学びに行きました。自分が3DCADなどの新しい技術を身につけることで、家業にプラスになるのではないかと父も考えたんだと思います」と、元貴さんは目を輝かせて当時を振り返る。

こうして、6代目候補として家業に入ったのが2015年10月。ここから元貴さんの新たな挑戦がスタートした。

「アトツギベンチャー」という世界との出会い

元貴さんがデザインから鋳造までの一連の仕事を覚え、肝である「吹き」の作業を担うようになった頃、「アトツギベンチャー」という考え方に出会った。
「小さい頃からずっと関わり続けてきた竿燈まつりが、自分の中で一つのテーマになっていたので、秋田県主催の若者活躍プラットフォーム構築事業『あなたラボ』に参加したんです。文化継承に取り組もうと考えていたのですが、他の参加者から『竿燈まつりもいいけど、せっかく鋳物という家業があるのなら、家業で何か新しい取り組みをしてみてはどうか』と言われたんです」

「家業を継ぐ」ことと「新しいことにチャレンジする」ことが、元貴さんの心の中で化学反応を起こした瞬間だった。



約270年もの歴史をもつ国重要無形民俗文化財「竿燈まつり」に小学生の頃から参加し続け、今では難易度の高い技もできる元貴さん(画像提供:武藤元貴さん)


その後、家業がありつつ自分で新しいことを仕掛けている後継ぎの先輩との出会いがあり、その先輩を通じて家業承継者たちが学び合うオンラインサロン「アトツギU34(現在はアトツギファースト)」や「アトツギ甲子園」の存在を知った。

「最初はSNSなどで情報をキャッチするだけだったんですけど、思いきって第1回アトツギ甲子園に応募してみたんです。結果は書類選考で落ちてしまいました。でも、決勝大会を見た時、すごい人たちがたくさんいて刺激を受け、この環境下で勉強したらもっとすごいことができるんじゃないかと思って。これがアトツギベンチャーの世界に入るきっかけでした」


「秋田県主催のプログラムで1分ピッチのコメンテーターだった方が、アトツギベンチャーの先輩」と話す

「アトツギ甲子園」出場後、「アトツギU34」に参加し、家業の経営資源を活用して新たな挑戦をするベンチャー型事業承継に取り組む後継ぎたちとの交流やピッチに積極的に取り組み、勉強した。そして、2021年4月に「アトツギU34」主催のピッチコンテスト「オンラインサロンピッチ春」で優勝。

「父が60代で経営者としてはまだまだ若く、鋳物屋の事業は父が舵取りをしてやってくれているので、新しいことにチャレンジして自由に動くことができています。だから、トライアンドエラーでどんどん挑戦できたことが大きかったです。」

アトツギのチャレンジがもっと広がってほしい

元貴さんは、第2回、第3回と「アトツギ甲子園」への出場を重ね、第3回では書類選考を通過して東日本ブロック大会*に出場した。
*第3回は全国3ヶ所で地方大会が開催されました。

「第2回と第3回は、同じオーダーメードのホットサンドメーカーの事業化というテーマで応募したんです。第2回はこれから着手するという計画段階で応募し、書類選考落ちでした。第3回は、実際にクラウドファンディングで製造と販売にチャレンジした結果報告という内容で応募したところ、初めて書類選考を通過することができました」

第3回「アトツギ甲子園」応募の際は、同じ秋田市のアトツギ仲間を誘って出場したという。「第1回の時は、北海道や東北で挑戦する人は少なかったんです。今もまだまだ少ないけれど、僕がチャレンジする姿を見せることで一緒にチャレンジする仲間を増やしていきたいですね」と元貴さんが話すのには、理由がある。


試行錯誤の初期段階のホットサンドメーカーの原型。オーダーメードで、ロゴ入りのホットサンドを焼くことができる

「秋田には老舗企業が多いんです。力のある後継ぎもたくさんいます。蓄積された良いものを、新しいものと組み合わせることで、めちゃめちゃ良いものができると思いませんか? だから、後継ぎが新しいことにチャレンジするという取り組みが、秋田でもっと広がったらいいと思うんです」

「アトツギ甲子園」に出場したことで、元貴さん自身は次のような変化を感じているという。

「いろいろなところから取材していただき、情報発信していただける影響は大きいです。WEBで検索した時に自分の名前と一緒に取り組んでいる内容が出てくるようになって、新しいことにチャレンジしていることを多くの人に知ってもらい、理解してもらえるようになりました。そして全国の後継ぎとつながることができ、クラウドファンディングに挑戦した際はたくさんの応援をいただいたり、飲食店との協業の話が生まれたりしたことも大きな変化ですね」

「秋田は、新しいことにチャレンジする土壌を何十年もかけて先輩経営者たちが耕してきてくれたおかげで、今、若者が挑戦できる土壌がある」と元貴さんは感じている。スタートアップの業界でも、秋田は注目されつつあるという。

「秋田の後継ぎ仲間と一緒にチャレンジを続けていきたい、仲間を増やしていきたい」と願う元貴さん。今年も新しいアイデアで「アトツギ甲子園」に出場する予定だという。

全国の他業種の後継ぎたちと出会い、アイデアをブラッシュアップできる「アトツギ甲子園」。「まずは、納得できるまで頑張る。チャレンジしていると、まわりの人が声をかけてくれる。失敗を恐れずに挑戦できるのが後継ぎの良いところ」と話す元貴さんは、秋田はもちろん、東北地域のアトツギベンチャー文化の求心力となるに違いない。






事業者名 有限会社武藤工芸鋳物
会社所在地 秋田市添川字境内川原228-5
ホームページ http://muto-cm.ftw.jp/
SNS  https://twitter.com/MutoGenki



ライター、カメラマン、編集:ココホレジャパン株式会社(https://kkhr.jp/
制作日:2023年9月~11月 ※第4回「アトツギ甲子園」特集記事引用


 

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