創業100年を超える老舗旅館5代目の決断。団体客中心から「愛犬ファースト」の宿へ
愛犬ファーストの旅館を営むアトツギ:伊豆長岡温泉 八の坊 望月 敬太 氏
愛犬と一緒に、そして快適に過ごせる旅館
2021年7月、静岡県伊豆の国市にある1913年創業の老舗の温泉旅館「伊豆長岡温泉 八の坊」はリニューアルを遂げ、「愛犬ファースト」を謳う旅館へと生まれ変わった。
しかし、「愛犬ファースト」の旅館とはどういうことか。これは平たく言えば「愛犬も一緒に泊まることのできる宿」ということだ。しかし、ただ愛犬と一緒に泊まれるだけでは愛犬ファーストという言葉に追いつかない。
「伊豆長岡温泉 八の坊」は、全室で愛犬と一緒に宿泊することができる。愛犬が粗相をしてしまったり、引っかき傷をつける心配をする方もいるかもしれないが、ソファや椅子の生地、壁紙、床材を全て犬が利用しても問題ない造りにしている。
また現在6部屋ある特別室は、より愛犬ファーストな仕様になっている。100平米超の広々とした部屋には、愛犬専用の設備やアメニティが充実しているほか、ベッドで愛犬と添い寝もできるようになっており、愛犬と過ごす時間が更にかけがえのないものになるよう、最大限の配慮がされている。さらに最高ランクの611号室(6ワンワン)は、121平米の広々とした露天風呂付き宿泊室となっており、なんと愛犬専用の露天風呂まで付いている。
ソファに愛犬を上げても問題ない。もし粗相をしても簡単に洗える生地を吟味したという
611号室に付いている露天風呂からの眺めも絶景だ
このほか、旅館入口には愛犬専用の足湯や屋上にドッグランスペースも併設するなど、あらゆるところで、愛犬にも優しい設計が施された旅館なのだ。旅行に出かける際、愛犬を連れていくことに躊躇してしまう人も多い中、「伊豆長岡温泉 八の坊」の取り組みは愛犬家のニーズに最大限応えたものと言えるだろう。
旅館入り口には愛犬用の足湯まで用意されている
家業に戻り直面した旅館業の実態
自身も保護犬を2匹飼っている、専務の望月敬太(もちづき・けいた)さんは、「伊豆長岡温泉 八の坊」を愛犬ファーストに切り替えることを決断した、この旅館の5代目。大学を卒業後、大手電機メーカーのキヤノンシステムアンドサポート株式会社に就職したという敬太さんに、家業に戻ってきた経緯をまず訊ねた。
「就職したキヤノンでは営業をやっていまして、旅館に戻ろうとは考えてなかったんです。小さい頃から旅館が好きだったので、いつか継ぐんだろうなと思っていたんですけど、就職活動のときに社長である父親から『家業があるから就職活動しなくても大丈夫だなんて思うなよ』と言われて。確かにそうだなと思い、ご縁をいただいたキヤノンで頑張ろうと思っていました」
キヤノンでは営業の仕事に邁進。トップセールス賞や社長賞などあらゆる賞を獲ったという。しかし仕事で圧倒的な成果を出す一方、家業に対しては心のどこかで引っかかる部分があったとも語る。
「父親からは『旅館業は厳しい商売だから継がせたくない』ということも以前聞いていたのですが、一度ちゃんと話したときに、本当は自分に継いでもらいたいと思っている父の言葉を聞きました。その言葉を聞いて旅館に戻ろうと決意したのですが、父からは『本当に戻る覚悟があるなら土日は旅館の仕事をしろ』と言われました。そして平日はキヤノンで働き、土日は旅館で働くということを1年近く続けてから、2015年に八の坊に戻りました」
「伊豆長岡温泉 八の坊」のロビー。椅子は愛犬が座ってもいいように、生地はビニールレザーを使用。ロビーでは2ヶ月に1回ほどのペースで、保護犬の譲渡会も行われている
本格的に家業に入った敬太さんがまず直面したのは、父親の言葉通りの「厳しい商売」である旅館業の実態だった。伊豆長岡温泉は歴史ある温泉処であり宴会横丁だったが、最盛期はバブル期の頃。それから30年経ち、状況は大きく変わっていた。
物価の高騰に、宿泊代の料金設定が追いついていない。30年前とほぼ変わらない料金設定に敬太さんは愕然とした。しかし、これ以上金額を上げればお客さんは泊まってくれない。ただでさえ往時の盛り上がりがない温泉街で、薄利多売をせざるを得ない状況だったが、敬太さんは懸命の営業活動を続けた。
「これまで社長だけが営業していたのが、そこに僕も加わったので業績は上がったんですよね。なので、これまでと同様に団体のお客様を取り続けていれば、とりあえず収益は確保できるなという思いがありました」
さらに敬太さんは料理の改革にも着手。新たに料理長を招き入れ、「料理」と「おもてなし」を旅館の柱にしようと宿作りに取り組んでいった。敬太さんの旅館改革は順調に進んでいたように思えるが、敬太さんには「このままでいいのか」という思いもあったという。
スタッフとの話し合いで生まれた、「愛犬ファースト」の構想
「働くスタッフの顔を見ていると、みんな楽しそうではないんです。かくいう私も、キヤノンとは違い、パターン化している旅館の営業の仕事に楽しみを見出せないでいました。そこで各部門からスタッフを選抜し、会議を開いたんです」その会議で、各スタッフにどんな仕事をしているときが楽しいかを問うと、皆が一様に「愛犬連れの宿泊客」をもてなしているときだと答えた。実は八の坊では、現社長が25年ほど前にすでに愛犬連れの宿泊客の受け入れを始めていたのだが、年間1,000頭ほどの愛犬しか受け入れておらず、宿泊客に占める割合としては少ないものだった。
それまで八の坊の売上の大半を占めていた団体客は、基本的に宴会を行うことが前提となっていた。しかし宴会形式では酒を呑み、盛り上がるため、どうしても料理を味わって食べるという雰囲気ではなく、スタッフとの会話にも興味を示さない。結果として残飯も大量に発生し、料理長もスタッフも、やるせない思いがあったという。強みの「料理」と「おもてなし」が生きてない状況だった。
その点、愛犬連れの個人のお客さんは、愛犬が可愛いだけでなく、お客さんは料理の説明もしっかりと聞いてくれ、味わってくれる。
「僕もワンちゃんが大好きですし、スタッフのみんなも愛犬連れのお客様の接客が楽しいと感じているなら、思いっきりシフトしようと決めたんです」
そこから、スタッフや信頼できるプロデューサーと一緒に、愛犬ファーストの旅館の形を真剣に話し合っていった。その話し合いに臨むスタッフの顔を見るととても楽しそうで、敬太さんは、さらに愛犬ファーストの旅館への決意を固めていったという。
社長からも、その転換について反対されることはなかった。「お前がやりたいようにやりなさい」と背中を押してくれたという。
「最終的な責任は社長にあるんですけど、そういう言葉を言ってくれた父はすごいと思いました。社長である自分が口を挟めば、僕のやりたいこととぶつかってしまうと思って我慢してくれたんでしょうね。改めて父を尊敬しました」
しかし時代はコロナ禍に突入し、団体のお客さんはゼロに。自然と「変わるしかない」状況になり、国の補助金などを活用しながら大規模な改装を実施。冒頭の説明通り、2021年7月に「伊豆長岡温泉 八の坊」は愛犬ファーストの旅館としてリニューアルオープンした。
オープン以降、コロナ禍で落ち込んだ売上は一気にV字回復。愛犬の宿泊数は年間7,000頭にまで増えた。さらに以前は団体客が売上の70%を占めていたが、個人客が90%と逆転した。
あの場に立たないと、見えない景色がある
敬太さんが「アトツギ甲子園」の出場を決めたのは、「伊豆長岡温泉 八の坊」の顧問である中小企業診断士から出場を勧められたことがきっかけだった。「『勉強にもなるし、八の坊の取り組みはアトツギ甲子園の意義にも合致するから出てみてはどうか』と言われました。そこで、信頼できるプロデューサーの方にも相談し、出場を決め、『美しく負ける』ことを目標に、準備を進めることにしました。とにかく自分の思いを好きなだけプレゼンに込めて、全て出し切ろうと思ったんです」
そうしてエントリーのための書類作りを進めた敬太さん。旅館の仕事の合間を縫っての作業だったが、その時間は改めて自身の事業を見つめ直す時間でもあったという。
「応募書類を作成しているとき、これまでこんなに八の坊のこと考えたことあるのかな? と思うくらい考えたんです。これまで自分がやってきたこと、そしてこれからの展望、旅館の経営の全てをアトツギ甲子園では伝えなければいけない。本気で考えなければ、美しく負けられないなと思いました」
売店ではオリジナルグッズも販売中。売上の一部は保護犬の活動に寄付されている
生憎、敬太さんが出場した第3回「アトツギ甲子園」のエントリー締切は、年が明けた1月初旬だった。年末年始の旅館業は、超がつくほど多忙を極める。そんな中敬太さんは書類の準備を進めなければならなかった。
「もう途中で辞めようかと挫けそうになりました(笑)。仕事を終えて深夜から朝方まで資料作成に向き合う日が続いて……ようやく完成して提出できたのは本当に締切ギリギリでした」
「美しく負ける」ことを目指していた敬太さんは、当初は決勝大会にまで進めるとは思っていなかった。しかし見事地方大会を勝ち抜き、決勝大会出場の切符を掴み取る。
「本当に信じられませんでした。決勝まで行けて満足だと思ったんですけど、やはり勝ちたい欲も生まれてくるんですよね。予選のピッチを見直して、決勝に向けて何百回も話す練習をしたりメンターさんに相談したり、ブラッシュアップを重ねました。資料もとにかく見やすくしようと思って、アニメーションを極力入れないようにしました」
万全の準備をして臨んだ決勝大会。「本番のピッチはボロボロでした」と敬太さんは悔しそうに語るが、結果は優秀賞。192名のエントリーの中から上位15名のファイナリストに残り、さらにその中から4名しか選ばれない優秀賞を受賞したのだ。
「アトツギ甲子園」に懸けた日々を振り返り、敬太さんは「出れるチャンスがある人は絶対に出た方がいい」と熱く語る。
「あの場に立たないと見えない景色があるんです。決勝大会の控室に入ったときに、『やばい』と思ったことを思い出します。出場者のみなさんはすごい人たちばかりで、自分の事業のことをよく考えている。絶対に勝てないと思ってしまいました(笑)。でも、後継ぎの仲間たちに出会えて一緒に戦えたことは僕の宝ですし、刺激になっています」
看板犬の「銀次」。ちなみに記事冒頭で敬太さんに抱えられているのは同じく看板犬の「かずえさん」。2匹とも保護犬である
また、敬太さんは「アトツギ甲子園」に出場したことで、静岡県内の後継ぎたちにも積極的に参加してほしいという思いから、静岡県にも呼びかけを行っているという。決勝大会で結果を残すには行政のサポートが欠かせないと考えているからだ。実際に、大分県では後継ぎたちを伴走支援する手厚いサポートを行っており、第3回大会では大分県から3つの企業が決勝に進出し、最優秀賞も大分県の株式会社グリーンエルムだった。
「アトツギ甲子園は自分の事業をブラッシュアップする絶好のチャンスなんです。行政が後継ぎたちの活動をサポートし、アトツギ甲子園への参加をもっと促した方がいいと提案しています。自分の経験が役立つのであればもちろん協力するので、県や市町村はもっと後継者支援に目を向けてほしいです」
「イヌバウンド」が見据えるもの
決勝大会のピッチで、敬太さんは次なる目標をインバウンドならぬ「イヌバウンド」と掲げていた。「イヌバウンド」は海外から愛犬連れの観光客をもっと招きたい思いから敬太さんが考案した言葉だが、これは「伊豆長岡温泉 八の坊」だけに観光客を呼びたい意図から考えたわけではなく、もっと広い視点で「イヌバウンド」という言葉を普及したいと考えているという。「海外の観光客が愛犬を連れて日本に来たとしても、八の坊だけが受け入れ体制を整えても意味がありません。日本の各地に気兼ねなく愛犬を連れて行ける環境を作っていかなければなりません。そのために全国から『イヌバウンド』に賛同してくれる仲間を募って、イヌバウンド協会を作り、日本の新たなツーリズムにしたいと思っています」
「アトツギ甲子園」出場後、「イヌバウンド」という言葉で商標登録をとった。さらに、メディアで取材される機会が増え、敬太さんの考えている「イヌバウンド」に懸ける思いが伝わり、理解し応援してくれる仲間も増えているという。
若女将と愛犬の2匹と一緒に
愛犬ファーストに切り替え売上が伸びている今も、「イヌバウンド」の取り組みを始め課題や心配事は尽きないと語る敬太さん。それだけ旅館業は難しい商売ということだが、旅館が大好きな敬太さんは「生まれ変わっても旅館の親父になりたい」と語る。
旅館とワンちゃんが大好き。
敬太さんのそのシンプルで真っ直ぐな思いが、「伊豆長岡温泉 八の坊」の未来を明るく照らす。
伊豆長岡温泉 八の坊静岡県伊豆の国市長岡1056-1
ホームページ:https://hachinobo.com/
SNSリンク:https://www.instagram.com/hachinobou8010/?hl=ja
ライター、カメラマン、編集:ココホレジャパン株式会社(https://kkhr.jp/)
制作日:2023年9月~11月 ※第4回「アトツギ甲子園」特集記事引用
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