太秦をカードゲームの聖地にする。祖父と交わした約束を胸に地域の再興を
カードゲームの未来を変えるアトツギ:株式会社三木盛進堂 三木幸太郎 氏
映画産業の中心地・太秦をカードゲームの聖地に
1957年に滋賀県の甲賀から太秦へと移転
京都府南部に位置する京都市右京区太秦。「日本のハリウッド」とも称されていた太秦は、昭和初期から多くの映画会社が撮影所を置き、映画産業の中心地として栄えた。東映太秦映画村というテーマパークがあり、家族連れや外国人の観光客が今でも多い。そんな場所に、工業用粘着テープ、染色材料の販売業、印刷業などを営む株式会社三木盛進堂はある。
三木盛進堂があるのは嵐電天神川駅の目の前
1957年、三木盛進堂は「くすりの里」として知られる滋賀県の甲賀で配置薬販売業からスタートした。その後、京都の地へ拠点を移し、染色業や印刷業にも事業を展開。現在は、主に印刷業をメインとし、着物の染屋を主な取引先としている。
「太秦をカードゲームの聖地にしたいんです」
そう笑顔で話してくれたのは、祖父が創業し、現在は父が営む三木盛進堂を手伝っている三木幸太郎(みき・こうたろう)さん。
株式会社三木盛進堂・三木幸太郎さん
自身のTCG(トレーディングカードゲーム、以下TCG)プレイヤーの経験と家業の印刷業を組みあわせ、LTCG(リミテッドトレーディングカードゲーム、以下LTCG)という新しいTCGのジャンルを創設し、企画、デザイン、印刷まで一貫して行っている。
幸太郎さんが企画・デザイン中のLTCGカード
一般企業で働いていた幸太郎さんが家業に戻り、LTCG事業を立ち上げるまでにどのような物語があったのか。これまでを振り返ってもらった。
「いま戻らないと後がない」家業を手伝うことを決断
幸太郎さんが、三木盛進堂を手伝うことになったのは2019年のこと。当時、不動産賃貸仲介業者で働いていた幸太郎さんは、今後のキャリアについて悩んでいた。年末に帰省し、父とお酒を酌み交わしているときにキャリアの相談をすると「うちに戻ってきてくれないか?」と急に言われたのだという。「手伝うとしても、もっと後だろうなと考えていました。でも話を聞いていくうちに思っているよりも、経営状況が良くないんだなと感じて、財務諸表を一度全部見せてもらったんです。結果、いま戻らないと今後家業を手伝える可能性は限りなく0に近づくなと思いました。それぐらい経営状況が良くなかったんです。当時はまだ30歳にもなっていませんでしたし、失敗したら別のことをやればいいやと思って、家業を手伝う決断をしました」
他社でもっと経験を積み、実力を身につけてから戻ろうと思っていたのだそう
幸太郎さんは、まず自社が抱える課題を改善していこうと試みた。効率が悪く、生産性が低いやり方を見直すため、社内だけではなく取引先とも交渉していった。
しかし、なかなかうまくはいかなかった。社内のメンバーはほとんどが50代以上。取引先の経営者の多くは2世代も上の方々だったため、幸太郎さんが話すことも通じず、相手が話していることもなかなか理解できなかった。中には「この業界はやめとけ。沈んでいくだけだから、無理して関わって人生を棒に振るな」と後継ぎになることを反対する人もいたそうだ。
祖父と父と交わした約束を果たすため
着物業界は斜陽産業のひとつといわれている。日常的に着物を着る文化は廃れ、七五三や成人式、結婚式といったイベントでも着物を着る人は少なくなっている。そのため染屋の数も減ってきており、三木盛進堂はその影響を直に受けていた。「既存事業で売上を上げようと思っても、天井が見えてしまっていて。市場自体が縮小している中で、このまま10年、20年先も生き残っていくのは難しいんじゃないかなと思いました」
着物の生地の巻取り時に使用する資材
それでも辞めずに続けようと思った理由を「10年前に亡くなった祖父との約束があったから」と幸太郎さんは話す。
「祖父が亡くなる半年ぐらい前に、祖父と父と3人でごはんを食べに行ったことがあるんです。当時祖父の体調は芳しくなくて、この先そんなに長くないんだろうなと感じていました。それでこの先会社をどうするのか、という話になったんですね。
ぼくは『父の後はぼくが継ぐし、お店はなんとかするから、心配せんでいい。安心しといて』と言ったんですよ。まだ大学1年生だったので、将来のことなんて全然考えていませんでした。でも祖父を喜ばせたい一心でそう言ったんです。結局、祖父はそのまま亡くなってしまったのですが、ぼくの中ではそれが約束だと思っていて。父にとっても約束だったんでしょうね。だから『会社に戻ってきてほしい』と声をかけてくれたのかもしれません」
入社した頃は、思うようにいかず、つらかったと話す幸太郎さん
「ぼくが幼稚園生の頃から祖父には『次期次期社長』と冗談交じりに呼ばれていたんです。だから、ぼんやりとですが『ぼくはいつか社長になるんや』と思っていました。そういう刷り込みもあったのかもしれません。祖父の作戦勝ちですね」
祖父と交わした約束を胸に、幸太郎さんは視野を広げて、別の領域で勝負してみようと新規事業に乗り出すことを決意する。幸太郎さんが思いついたのは、自身が20年以上もプレイし続けてきた、TCGに関する事業だった。
プレイヤーとして感じたTCGの闇
幸太郎さんがTCGを始めたのは、小学生の頃。ゲーム性の面白さ、デザイン性の良いカード。そんな魅力に惹かれTCGにのめり込み、新作が出ればマイナーなものであってもほとんどの作品に触れてきたという。「小学校、中学校、高校、大学とコミュニティが変わっていっても、 携帯しやすくどこでもプレイすることができ、周りの人にも一目で遊んでいることがわかるTCGは、優秀なコミュニケーションツールでした。はじめて会う人ともTCGを介すれば、すぐに仲良くなれたんです」
TCGはいまでも優秀なコミュニケーションツールだと幸太郎さんは語る
「ただTCGには闇の部分もある」と幸太郎さんは続けて教えてくれた。
「最近、『TCGは札束で殴り合うゲーム』と揶揄されることもあります。なぜなら、強いカードの価格が高騰していて、資金力のある人しか手に入れられないからです」
1枚のカードに数十万円、数百万円の値がつくこともあるのだというから驚きだ。そんな流れを受け、TCGのメインユーザーはいまや子どもではなく、大人になっている。
「カードショップに行くとぼくと同じぐらいの20代、30代の人ばかりを見かけます。子どもはほとんどいません。それにゴミ箱には大量のカードが捨てられています。レアカード以外の弱いカードは価値がないので、ゴミとして扱われているんです」
そんな状況を変えていける可能性を幸太郎さんは、自身が考案した「LTCG」に見出す。
幸太郎さんがLTCGの着想を得たのは、コロナ禍の頃、巷で流行っていたボードゲームをプレイしたことがきっかけだった。ボードゲームの中には、LCG(リビングカードゲーム、以下LCG)というジャンルのカードゲームがある。LCGとは内容物が固定された「内容固定のカードセット」を購入するだけで遊ぶことができるカードゲームだ。
TCGとは違い、カードの当たり外れといったランダム性がないため、資金力ではなく技量で勝負することができる。しかしTCGほどの知名度がなく、人気がないのが現状だ。その理由を幸太郎さんは「日本人がTCGに馴染みすぎているから」と語る。
「プレイしてみて面白いとは思ったのですが、『一番多くのポイントを手に入れた人が勝ち』みたいなゲーム性が、TCGやポケモンなどに慣れ親しんだ日本人には薄味に感じるだろうなと感じました。それに『かっこいい』『可愛い』と思えるデザインのカードも少なかったんです。『じゃあ、LCGにTCGのようなゲーム性、デザイン性を掛け合わせたものを作れば人気が出るんじゃないかな』と考えました。それで生まれたのが、LTCGです。自社で行っている印刷業とも組み合わせれば相乗効果も生まれるし、いいかもしれないと思いました」
デザインのアイデア出しや発注指示書作成には画像生成を活用している
しかし、そんなLTCG事業についても、はじめは社内の理解は得られなかったという。
「やっぱり世代が上の方々からしたら、わからないと思うんです。TCGで遊んだことがない人たちなので、どれだけ説明しても伝わりませんでした。20年以上もプレイヤーだったぼくと、父や社員との温度差はかなりありましたね」
父や社員との溝を埋めてくれた「アトツギ甲子園」
父や社員との溝が埋まらないままにLTCG事業を進めていこうとしていた矢先、幸太郎さんは京都信用保証協会企業支援部で事業承継の支援を行っている村井章大さんと出会う。村井さんに事業計画書作成の手伝いをしてもらう中で、「アトツギ甲子園というものがあるんだけど、エントリーしてみない?」と声をかけてもらった。「アトツギ甲子園」の応募書類を作っていけば事業計画書もより良いものに仕上がるのではという考えのもと、二つ返事でエントリーを決めた。
「事業計画書を作るよりも、アトツギ甲子園の応募書類、ピッチ資料を作るほうが楽しかったですね。勝とうとか、優勝しようとか肩肘張らずに、楽しいから夢中で取り組んでいました」
幸太郎さんはいつも会社の2階で作業をしている
幸太郎さんはファイナリストへと歩を進め、メンターの株式会社大都の山田岳人社長や同じファイナリストたちと交流する機会を通して、資料やピッチの内容を大幅に変更したという。
「それまでぼくは決勝大会のピッチで、事業がどれだけ成功確率が高いかみたいな話をしようと思っていたんですね。売上がどれだけ作れるかとか、それはどんな根拠があるからなのかとか、市場や競合を細かく分析して数字で示そうと思っていました。もちろんそれも間違いではなかったと思うのですが、同じファイナリストのみなさんとお話をさせてもらって、自分とは見ているところが全然違うなと感じたんです。日本社会や世界にどのような影響があるのか、人々にどのような価値を与えることができるのか。そういった高い視座で事業のことを考えていらっしゃいました。
メンターの山田さんからは『内容を理解してもらうことが大事なのではなくて、 もっと聞きたいと思ってもらえることの方が大事だ』と何度も言われて。事業内容を淡々と説明するようなピッチではなく、感情を込めて話せるようなピッチになるよう努めました」
幸太郎さんにとって「アトツギ甲子園」でのピッチは、「社内に対するプレゼン」でもあった。事業内容を理解してもらうことは難しくても、自分の熱量、本気度だけはわかってもらえるようにしたかった。そんな思いが通じたのか、溝があった父や社員との関係性も、「アトツギ甲子園」に出て変わった。
「お墨付きではないですが、自分のやろうとしていることを認めてくれた感じはしましたね。父も社員もビジネスの概要はまだわかっていないんだと思います。ただ表舞台で話したことによって、ぼくが本気でやろうとしていることが伝わったのかなと。
事業内容はわからなくても新しいカードができると一緒に喜んでくれますし、悩んでいるときには『頑張れ』と応援してくれます。温かく見守ってくれているなと感じていますね」
だからこそ、周りの理解が得られなくて、新規事業を進めていけないという後継ぎたちには、ぜひ「アトツギ甲子園」への出場を考えてもらいたいと話す。
「周りに理解を得ることを優先して、小規模でビジネスを始めて結果を残そうとする人もいると思うのですが、いざ実行しようとするとやっぱり時間もお金もかかるじゃないですか。アトツギ甲子園なら時間だけで済みます。応募して途中で落ちてしまってもいいと思うんですよ。熱量をかけて応募書類やピッチ資料を作り込むことに、何かしら価値はあるはずなので」
カードゲームを通じて、地域の再興を目指す
「アトツギ甲子園」出場後、幸太郎さんはLTCGの新しい作品を企画し、レギュレーションの整備やカードの制作などに励んでいる。現在は3人対戦型のLTCGのカードを開発中
カードをリリースし、ある程度ユーザーが増えてきたら、大会も企画し開催していく予定だという。
「太秦には映画に出演されている俳優さんたちが通っていたような有名なお店がたくさんあるんです。でも当時の活気はいまはなくなってしまっていて。これまでずっと太秦で商売させてもらってきた恩返しではないですけど、LTCGの聖地として広まれば、少しは地域に貢献できるのかなと思っています。
かつての自分のように、カードゲームを通して子どもたちが色んな人と仲良くなってくれたら嬉しいですね。想像してみてください。地元の小学生と外国人観光客が言葉も通じないのに、ここでカードバトルをしていたら面白いじゃないですか」
映画産業の中心地として栄えた太秦。この地にカードゲームを楽しむ子どもたちの笑い声が響く日も、そう遠くはないはずだ。
株式会社三木盛進堂
京都市右京区太秦下刑部町14-25
ホームページ:https://www.miki-inc.co.jp/
ライター、カメラマン、編集:ココホレジャパン株式会社(https://kkhr.jp/)
制作日:2023年9月~11月 ※第4回「アトツギ甲子園」特集記事引用
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